LOG IN

学びに当たって。私の疑問。

by カウラーキー(kouraku)with新生クラヴァー&新生terataku

そもそも、『「“学び”」』。
それに当たって、「不器用な、私や、我々人間」に、『「「歪さ」」』は、どうなんだろうか。
私が想うに、「不調和も、病も、挫折も、困難も、試練も、絶望も、失恋も、悲しみも、怒りも、欲の過不足、ネガティブ、生きる理由...etc」つまりは、「かかずらい!」「患い」「プロセスそのものに足を捕られる」「自分の意識の乗っ取り」など、「本人たちが願っていないおかしな不幸」。って、バランスが自分たちでとれるなら、『「“”無事に“学べる”」』からいいのだろうが・・・「おもうほど、そんなに、人は、強くなんてなくて・・・『「“聖なる者も、世界も、地球も、宇宙も、神も、仏も、愛する者も、本人も、誰も望んでいない、人の愚かさゆえの、それぞれの、ふざけた迷い”」』とでも呼べばいいのか――。
「それ」、どうすれば・・・? 要るのか? 人は誰でも、「生きてるうち」に、『「“救い、真の救済”」』をと。「修行」などの、言い方は数あれど、『「“なんであれ無事に”」』と。なのになんで取り返しが自分でつかなくなる・・・? とりあえず、『「“めざめ”」』が要る。そっからじゃないかと想う。


カウラーキー(kouraku)with新生クラヴァー&新生terataku
OTHER SNAPS